-ダイヤモンドスピン方式- 量子コンピュータのハードウェア研究の最先端
Technology News|2024年9月9日
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群雄割拠のハードウェア研究
量子コンピュータの研究速度が増しています。量子コンピュータの研究成果に関するニュースは毎日のようにアップデートされ、目にする機会も多いのではないでしょうか?中でもホットなテーマは前回の記事でご紹介した“誤り耐性量子計算“、そして、量子コンピュータの様々なハードウェア方式での研究開発競争と言えるでしょう。
実はまだ、量子コンピュータの実用に向けてどのハードウェアが最も有望なのか判っていません。下図に示すように、現在、様々な方式の量子コンピュータの研究が進められています。それぞれの方式には利点と課題があり、利点を伸ばし、課題を克服する研究がおこなわれているのです。
富士通は量子コンピュータのハードウェア研究として超伝導方式とダイヤモンドスピン方式に取り組んでいます。本記事ではダイヤモンドスピン方式の量子コンピュータの仕組みと、現在、富士通がオランダのデルフト工科大学、そしてオランダ応用科学研究機構が設立した量子技術研究機関「QuTech」と取り組んでいる最新の研究成果についてご紹介します。
ダイヤモンドスピン方式の特徴
ダイヤモンドスピン方式は、どのような特徴を持っている方式なのでしょうか?特徴を大まかに理解するために富士通が並行して取り組んでいる超伝導方式と比較してみたいと思います。
量子ビット数
富士通は超伝導方式の量子ビット数を2023年に64量子ビット、2025年に256量子ビット、2026年以降に1,000量子ビット超と計画しています。世界の量子コンピュータのハードウェア研究を見ても、2024年8月現在、超伝導方式の量子コンピュータはダイヤモンドスピン方式を含む他方式に比べ、量子ビット数の大規模化が最も進んでいます。一方、ダイヤモンドスピン方式は世界の最先端レベルで10量子ビット程度ですが、量子ビット数は今後、拡大していくことが期待されます。
量子ビットの接続
両方式における量子ビットの接続の違いは、ダイヤモンドスピン方式にとって特徴となり得る部分です。
超伝導方式は量子ビットが格子状に配列されており、隣接した量子ビットとしか接続することができません。一方、ダイヤモンドスピン方式は次章でご紹介するコミュニケーション量子ビットの機能により、より複雑な量子ビット同士の接続が可能です。これによりダイヤモンドスピン方式はスケーラビリティに優位性があると考えられています。
量子ビット
量子ビットの実現方法は一つではありません。実現方法が多様であるため、冒頭でご紹介したようにいろいろな量子コンピュータの方式が提案されています。
超伝導方式は人工原子と呼ぶこともできる、電子回路(共振回路)をベースとした量子ビットを計算に使用しています。現在の超伝導量子ビットは、従来の半導体プロセス技術を応用してシリコンチップ上で形成されています。一方、ダイヤモンドスピン方式はダイヤモンドに含まれる天然原子によって生成されるスピンを量子ビット用います。ダイヤモンドも広い意味では半導体なのですがシリコンと違ってプロセス技術が未熟であるため、専用のチップ化技術の開発が必要です。
コヒーレンス時間
コヒーレンス時間とは量子計算が可能な量子状態が壊れるまでの時間を指します。コヒーレンス時間が長いと計算回数が増やせるため、コヒーレンス時間の長時間化は量子コンピュータの実用に向けて重要です。超伝導量子ビットのコヒーレンス時間は~100μ秒であるのに対し、ダイヤモンドスピン方式は後述する電子スピン量子ビットがミリ秒以上、核スピン量子ビットが1秒以上と長寿命です。
動作温度
動作温度は、量子コンピュータのシステムを構築するうえで重要な指標の一つです。
超伝導方式が20mK(-273.13℃)であるのに対し、ダイヤモンドスピン方式は1K(-272.15℃)以上で動作可能です。ほとんど違いがないように見えますが、次章で解説するようにこの約1℃の動作温度の違いは量子コンピュータの実装に大きな影響を与えます。
ダイヤモンドスピン方式の仕組み
本章では、ダイヤモンドスピン方式の量子コンピュータがどのような仕組みで実現されているのか、概要をご紹介していきたいと思います。
ダイヤモンドスピン方式の量子コンピュータは12C炭素原子の結晶であるダイヤモンドを用い量子ビットを作ります。ダイヤモンドというと宝飾品で良く用いられるブリリアントカットされたキラキラと輝く宝石をイメージする方も多いと思います。しかし実は、通常装飾品として利用される天然ダイヤは不純物や欠陥が多く量子ビットの材料として使用するには適していません。このため、量子ビットの材料として使用できるようにするために、一旦不純物や欠陥を極力取り除いた人工ダイヤを作製し、量子ビットとして動作させるのに必要なだけの窒素原子などの不純物を追加した量子ビット用のダイヤモンドを製造します。
量子ビット用に作製した人工ダイヤモンドの結晶の中にはN(窒素)とV(空孔)が含まれており、NとVのペアが量子ビットを生み出します。このNとVのペアのことをNVセンターと呼びます。NVセンターは量子ビットとして使える電子を1つ生み出すことができて、この量子ビットのことを電子スピン量子ビットと呼びます。なぜダイヤモンドが用いられているかというと、他の原子に比べて安定した量子ビットを作ることができるためです。
また、この人工ダイヤモンドから電子スピン量子ビット以外の量子ビットも作り出すことができます。その基になるのが12C炭素原子の同位体である13C炭素原子と14N窒素原子です。13C炭素原子から生まれた量子ビットを13C核スピン量子ビット、14N窒素原子から生まれた量子ビットを14N核スピン量子ビットと呼びます。ダイヤモンドスピン方式では電子スピン量子ビット、13C核スピン量子ビット、そして14N核スピン量子ビットの3種類の量子ビットをモジュールとしてダイヤモンドスピン量子モジュールを構成します。通常、一つのダイヤモンドスピン量子モジュールの中には、電子スピン量子ビットと14N核スピン量子ビットがひとつずつ、13C核スピン量子ビットが複数個存在します。
この電子スピン量子ビットと核スピン量子ビットには、それぞれの特徴に応じて異なる役割が割り当てられています。
電子スピン量子ビット:
・他のダイヤモンドスピン量子モジュールとの光を使った接続
・ダイヤモンドスピン量子モジュール内の核スピン量子ビットとの接続
このように他のダイヤモンドスピン量子モジュールや量子モジュール内の核スピン量子ビットと通信的な役割を担うため、コミュニケーション量子ビットと呼ばれます。
核スピン量子ビット:
・コヒーレンス時間が長く情報を保持させる役割を担当
このため、メモリ量子ビットと呼ばれます。
ダイヤモンドスピン方式の量子コンピュータは、これまでご紹介したように、ダイヤモンドの結晶の中で生み出されたこれらの量子ビットを制御し計算を行います。電子スピン量子ビットが他のダイヤモンドスピン量子モジュールと光を使った接続ができることから、量子ビット同士を柔軟に連携させた計算が可能になると期待されています。格子状に並んだ隣接する量子ビットと連携する超伝導方式の量子コンピュータに比べ、ダイヤモンドスピン方式の量子コンピュータは離れた位置にある量子ビット同士を連携できるため、スケーラビリティの観点で優位性があると考えられています。
動作温度が1Kを超えるかどうかは冷凍機にとっては大きな違い
動作温度の違いは量子コンピュータの実装に大きな影響を与えます。超伝導方式の量子コンピュータは20mK(-273.13℃)まで冷却する必要があります。一方のダイヤモンドスピン方式の量子コンピュータは1K(-272.15℃)以上で動作可能です。たった1℃に満たない差ですが極低温の世界ではこの差の影響はとても大きくなります。
実は、20mKまで冷やすのと1Kまで冷やすのでは冷却に必要なエネルギーが1000倍以上異なります。20mKまで冷却する場合、希釈冷凍機という特殊な冷凍機が必要になります。超伝導方式の量子コンピュータでは20mKまで冷却するために高さ約2.8mの希釈冷凍機が用いられています。ダイヤモンドスピン方式の量子コンピュータはこのような大型の希釈冷凍機を用いる必要がないため小型化が可能になります。
デルフト工科大学、QuTechと富士通の共同研究
富士通はオランダのデルフト工科大学、QuTechとの共同研究でダイヤモンドスピン量子コンピュータに必要な技術をフルスタックで研究開発しています。
ここでは、ダイヤモンドスピン量子ビットチップとCryo-CMOSを用いたインターフェースエレクトロニクスの研究成果の概要についてご紹介いたします。
ダイヤモンドスピン量子チップ
前章でダイヤモンド中に量子ビットを作るため、必要なだけの窒素原子などを追加した量子コンピュータ用の人工ダイヤモンドを製造することをご紹介しました。そして、ここで追加する窒素原子(N)が空孔(V)とNVセンターとなり量子ビットを生み出します。我々の共同研究では、窒素原子(N)の代わりにスズ(Sn)を用い量子ビットを作り出すことに成功しています。スズ(Sn)とV(空孔)のペアによりSnVセンターを構成し量子ビットを生み出します。
SnVセンターはNVセンターに比べ10倍を超える高効率な発光特性を持ちます。これにより光読み出しや光による量子もつれによるモジュール間接続の性能向上が期待されます。加えて、外部電場に対する影響を受けにくくなります。この結果、集積に適した、小さなダイヤモンドスピン量子ビットチップを形成することができます。
Cryo-CMOSを用いたインターフェースエレクトロニクス
Cryo(クライオ)とは「冷たい所でも動く」という意味で、極低温下でも動くのがCryo-CMOS回路です。量子コンピュータの大規模化に伴い量子ビットユニットとその制御装置を結ぶ配線(ケーブル)が課題になります。超伝導方式でもダイヤモンドスピン方式でも必要な温度に差はあるものの、量子ビットユニットは極低温の環境に設置する必要があります。一方、制御装置はこれまで室温環境に設置されてきました。量子ビット数が多くなると量子ビットユニットと制御装置を結ぶケーブル配線が多くなり、冷凍機内に収まらないことに加え、ケーブルを通して伝わる熱、あるいはケーブルそのものからの発熱が量子ビットに影響を与えてしまします。
今回開発したCryo-CMOS回路はダイヤモンドスピンの量子ビットユニットを設置する数K(数ケルビン)で動作する制御回路です。Cryo-CMOS回路を極低温の冷凍機内に設置することで、ケーブルを介さずに量子ビットユニットの制御が可能になります。これにより課題であった量子ビットユニットと制御装置を結ぶケーブル問題を解決しています。この研究結果はダイヤモンドスピン量子コンピュータの大規模化のブレイクスルーになることが期待されます。
Interview with Professor Hanson, Qutech, Delft Universty of Technology
半導体、ナノテクノロジー、光通信デバイスの研究知見を活かす
ダイヤモンドスピン方式の量子コンピュータはまだアーリーステージといえますが、スケーラビリティに優位性を持ち、量子コンピュータの実用化に向けて有力な方式の一つと考えられています。
ダイヤモンドスピン方式のハードウェア開発には量子チップの高効率化や制御回路の極低温化での動作など広範なハードウェアの知識やノウハウが要求されます。富士通はこれまで半導体やナノテクノロジー、光通信デバイスの先端研究を行って来ました。これらの研究に携わった研究者がダイヤモンドスピン量子コンピュータの研究開発の中心となり、その知識と経験を存分に活かしています。
現在、スマホやパソコンに使われているコンピュータもトランジスタが開発される以前は真空管など様々なハードウェア方式が検討されてきました。量子コンピュータのハードウェア開発はまさに同じステージにあると言えるでしょう。トランジスタのようにダイヤモンドスピン方式のハードウェア研究にもブレイクスルーの種が転がっているかもしれません。
富士通はその可能性をこれからも追求していきます。是非今後とも富士通の量子コンピュータの成果にご期待ください。