量子コンピューティング:商業化に向けた技術競争の加速

青と赤のデジタル回路のイメージ

Technology News|2024年6月10日

2019年にグーグルが「量子超越性」を実験的に実証したことが量子コンピューティング時代の到来を想像させる契機となり、政府、学界、産業界、ベンチャーキャピタル(VC)による投資や開発競争は暫く「過熱」とも言える状態が続いてきました。しかし、エンドユーザーの過剰な期待と量子コンピューティングの実用化の間には大きなギャップがあり、量子技術の将来価値と比較して生成AIは即時的なビジネスの利益を得られます。したがって、産業界リーダーやベンチャーキャピタルが生成AIへの投資に注力するようになり、量子コンピューティングはその影響を受けはじめました。2022年後半以降は、「量子の冬」が頭をよぎるほどベンチャーキャピタルの投資活動が大きく低下しました。

しかし、量子コンピューティングをめぐる全体像を見渡していくと、政府、学界、産業界、ユーザーなどの各ステークホルダーの取組みよって量子コンピューティングの時代が着実に近づいてくる実態が見えてきます。

政府・公的資金や有力企業の投資活動に手を緩める気配はない

確かに、過剰な期待という現象は、他の新興技術の初期段階では一般的であり、業界はその期待を適切に対処すべきです。しかし、量子コンピューティングでは、ベンチャーキャピタルの投資額が大きく減少する一方で、投資件数は増加を続け、2023年には過去最高を記録しました。これは、同時期にベンチャーキャピタルの投資額と件数の両方が減少した他の主要な新興技術とは対照的です。

他方、グローバルな経済および社会環境の変化を受けやすいリスクマネー(VCs)を除き、重要な投資家である政府・パブリックファンド、有力企業は投資活動を緩めていません。量子コンピューター技術は「戦略的主権技術」と呼ばれているほど、将来の重要技術として主要国・地域間の競争は激化しています。2023年に米国、EU、英国、インド、韓国等の主要国政府はロードマップの更新、イノベーション拠点の新設、支出資金の増額などを含む、新たな政策アプローチを策定しました。

世界各国の政府は、これまでの支出と今後の取り組みの一環として、量子技術開発(量子コンピューティング技術に焦点を当てたもの)に400億ドルから500億ドルの資金を提供することを約束しています 。この金額を10年間の平均とすると、量子技術に対する政府の投資は年間約40億ドルから50億ドルになり、ベンチャーキャピタル投資のピーク時(2022年の25億ドル)のほぼ倍になります。公的資金は、量子コンピューティングの開発にとって重要な資金源となっています。

しかし、公的資金は基本的な研究開発活動にとって重要ですが、民間資金は応用開発と商業化においてより重要な役割を果たします。

多くの技術的ブレークスルーにより商業化プロセスが加速

実際、業界の調査によると、ベンチャーキャピタル投資の減少は「量子の冬」ではないというのがコンセンサスとなっています。むしろ、有力ベンダー間の競争が活発になっており、多くの技術的ブレークスルーが見られ、商業化に向けたプロセスは着実に進歩しています。学界や産業界は、エンドユーザーの期待と量子コンピューティングの実用化の間に存在するギャップを埋め合わせるために、技術開発の加速とともに、この技術の実用化に向けてますます力を傾いてきています。

(1)中性原子システムの台頭

有力なスタートアップ企業による技術ブレークスルーで中性原子量子コンピューターのプレゼンスが急速に高まってきています。アトムコンピューティング社(Atom computing)は2023年10月に1,180量子ビットの中性原子システムをリリースしました。その時点で1,000量子ビットを超えてスケールアップができたのは世界で初です。アトム社は当初の目標であった多数の量子ビットへのスケーリングを達成したとともに、量子ビットが量子情報を40秒間保存できることを実証し、記録的なコーヒレンス時間(量子ビットが熱雑音などの影響を受けずに安定して動作する時間)を達成しました。

他方、ハーバード大学がキュエラコンピューティング(QuEra Computing:同じく中性原子システムに取り組むベンチャー企業)、MIT、NIST等と緊密に連携して主導した実験では、研究者は、48個の論理量子ビットと数百のもつれ論理演算を備えるエラー訂正された量子コンピューター上で大規模なアルゴリズムを実行することに成功しました。これは大いに注目されたエラー訂正技術の進展です。

2023年6月に256量子ビットの中性原子システムをリリースしたキュエラ社は上記の誤り訂正技術を利用して、10個の論理量子ビットと256個を超える物理量子ビットを備えた量子コンピューターを2024年末までに商業販売することを目指しています。また、量子アルゴリズムの動作検証や評価を行えるよう、論理量子ビットシミュレーターを2024年上期にリリースする予定です。10論理ビット誤り訂正量子コンピューターが計画通り2024年末までにリリース(商用化)されるかどうかは興味深いところです。

上記のアトム社の物理的量子ビット数のスケールアップに成果を収めたことに対して、QuEra社は重要なエラー訂正技術を活かし論理量子ビットを作成することに成功しました。上記2社の技術的ブレークスルーで中性原子システムが超伝導方式とイオントラップシステムと共に、有力な量子コンピューティングシステムのトップ3に挙がってきました。ただし、両社とも量子コンピューターの実用化に重要なエラー率(或は忠実度)の改善度合いが提示されていないので、今後の取り組みを期待します。

(2)量子ビットから論理量子ビット(仮想量子ビット)の作成、そしてエラー率改善へ

さらに、論理量子ビットを作成したとともに、エラー率も大きく改善させたマイクロソフトとクオンティニュアム(Quantinuum)の取組みが量子コンピューティング技術の実用に向けて大きな進展を見せました。量子ビット仮想システム(マイクロソフトのエラー訂正技術)をイオントラップハードウェア(クオンティニュアム)に適用して、マイクロソフトとクオンティニュアムは30個の物理量子ビットから4つの論理量子ビットを作成することができました。これまで一つの論理量子ビットを作成するには約1,000個の物理量子ビットが必要だと言われてきましたが、マイクロソフトとクオンティニュアムの研究成果によると1論理量子ビットを作成に必要な物理量子ビット数は、前出の1,000よりずっと少ないビット数で出来ることが証明されました。また、実験対象のもつれた物理量子ビットで測定された回路エラー率8×10-3(0.008)に対して、もつれた論理量子ビットは10-5(0.00001)まで改善されたといいます。つまり、これら論理量子ビットは物理量子ビットと比較し、800倍優れたエラー率を示し、論理量子ビットの高い信頼性が実証されました。

マイクロソフトとクオンティニュアムのアプローチは、論理量子ビット数とエラー率という二つ指標で技術的ブレークスルーの成功を評価することで、実世界のアプリケーションにより近づいていると評価されています。Forbesの報道によると、マイクロソフトは、論理量子ビットを使用するハイブリッドスーパーコンピューターの性能をエラー率が1億操作あたり1回(10-8)に制限するレベルまで拡張することを計画しています。
一方、クオンティニュアム社は2025年、10個以上の論理量子ビットを持つHeliosと呼ばれる新しいHシリーズ量子コンピューターを導入する予定で、長期的に1,000個の論理量子ビットを持つ量子マシンを作る可能性を見据えているようです。

上記の成果を実装し、かつスケールアップしていく両社の取組みを期待しています。

(3)超伝導方式の技術開発の有力ベンダーも政策調整

超伝導方式は量子コンピューターの技術競争でずっと先頭を走ってきていましたが、前述した中性原子方式とイオントラップ方式の急進展で激しい競争にさらされています。
2023年12月にIBMは前述したアトム社の1,180量子ビット(中性原子)に次ぐ1,121量子ビットの超伝導式プロセッサー(Condor)をリリースしましたが、新しく発売された次世代「システム2」にはCondorチップを搭載せず、3個の133量子ビットを持つHeronプロセッサーを使用するとしました。なぜなら、Heronチップのエラー率はCondorチップの5分の1しかないからです。つまり、大規模な量子ビット数を持つチップよりもエラー率の比較的少ないチップのほうがより重視されていると言えます。

今後、IBMは「エラー訂正」という新しいアプローチを採用する小型チップの開発に注力する予定だとしています。量子ビット数という量の追求から、技術の実用化が欠かせない「エラー訂正」技術開発(質の向上)に注力するIBMの政策変化に注目されます。

量子コンピューティングをめぐる重要なグローバルトレンド

以上で見てきたように、2022年後半から量子コンピューティングをめぐって大きな変化が生じています。企業のリーダーたちは個々の事象で一喜一憂せず、視座を高くして量子コンピューティングをめぐるグローバルのキートレンドを正確に把握し、期待を適切にマネジメントして量子コンピューター時代を迎える準備が求められます。

以下、量子コンピューティングをめぐる三つのグローバルの重要なトレンドをまとめます。

(1)各ステークホルダーによるトータル開発投資の増加傾向は継続

量子コンピューティングに対する開発投資は主に政府・公的ファンド、ベンダー企業(大企業)、ベンチャーキャピタルからなります。量子技術の戦略性から政府・公的ファンドの投資は強化されており、もっとも重要なバックボーンとなっています。欧米や新興国政府の大部分は新しいイニシアティブを発表し、投資へのコミットメントを増加させています。ベンダー企業(大企業)では攻める企業(主に米系)と、事業内容の再構築や投資方向の調整を行う大手企業(主に中国系)に分かれます。投資収益の配慮、市場環境変化などに影響されやすいVCsからの投資総額が低下してきていますが、この影響は主に量子技術へのVC投資の50%以上を占める米国の減少(約80%減少)によるものであり、EMEA地域の投資は3%増となっています。

因みに、IDCは各ステークホルダーによるトータル開発投資の年平均成長率(2023~2027年)は11.5%に達すると推計しています 。したがって、ユーザー企業は一つの事象に一喜一憂をせず、量子コンピューティングへの期待を適切にマネジメントし、量子新時代の到来を備えておく必要があります。

(2)開発の視点からは早期実用化のため信頼性の高い論理量子ビットを作成するのが優先的取り組みとなる

これまでのハードウェア開発では、物理量子ビットの数を増やすことが主たる目標でした。しかし、量子ビットは本質的にノイズ(エラー)が多く、エラー率の高い物理量子ビット数を増やすだけでは、量子コンピューターの有用性と実用性は限られてしまいます。そこで、汎用量子コンピューターの早期実用化を実現するために、少ない物理的量子ビットを用いて実用的で信頼性の高い論理量子ビットを確保する、エラー訂正技術が優先的に取り組むことがコンセンサスになりました。

前述のように、マイクロソフトとクオンティニュアム社は30個の物理量子ビットから4個の論理量子ビットを作成しましたが、2025年には10個以上の論理量子ビットの作成(必要な物理量子ビットは約75個と推定)を目指しています。また、キュエラは2024年末までに256個の物理量子ビットから10個の論理量子ビットを作成する予定です。上記のケースによって促されたかもしれませんが、IBMも「エラー訂正」技術開発へと政策調整を進めています。

上記の流れは、量子ビット数の追求から早期実用化のため信頼性の高い論理量子ビットを作成するエラー訂正技術へシフトする大きなトレンドになると考えます。

(3)技術方式もベンダーも競争の最終勝者はまだ確定できない

古典コンピューターと違って、量子ビットを作成するハードウェアには多数存在します。これまで、開発が進んでいて、先頭に進んでいるのは超伝導方式とイオントラップ方式でした。ところで、上述したアトム社とキュエラ社が収まった成果は、中性原子も有望な技術方式として証拠を提供しました。他方、これまでリソースが豊富な大手ベンダーが量子コンピューティングの開発をリードしてきましたが、アトム社、キュエラ社、クオンティニュアム社などのベンチャーも高いパフォーマンスを出して、量子コンピューティング分野の先頭グループに立つようになりました。
したがって、現段階では、技術システムもベンダーも、競争の最終的な勝者をまだ確定できないでいます。複数の技術方式や量子コンピューティングエコシステムに注意深くアンテナを張っておく必要があります。

より詳細な分析は量子コンピューティングに関する以下の富士通のインサイトペーパーを参考してくださいませ。

主要参考文献